【日本を出る君にエールを】「グローバル」と向き合おう。 桜リクルート代表鵜子氏

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東南アジアにマレーシアという国がある。ほんの十数年前はあまり知られてはいなかった。マレーシアは東南アジアのムスリム国家で、国教をイスラム教と定めている。  人口の約65%がイスラム教徒で中東との交流も盛んだ。

「怖い宗教イスラム教を国教とする、怪しい発展途上国家マレーシア。」それが多くの日本人の以前の印象だったはず。そんな2003年に日本から飛び出し、マレーシアで人材紹介の事業を立ち上げた日本人がいる。桜リクリート代表の鵜子幸久氏だ。

今回は彼への取材を通して、日本から今まさにASEANへ出んとしているあなたにエールをお送りたい。

きっかけは違和感

ーマレーシアで事業を立ち上げるきっかけに、38年過ごした日本で感じた違和感があるとうかがったが

「何かが違う」

気が付いたら日本に38年間住んでいた。そんな時に胸をよぎった感情だった。

わたしは京都府に生まれ、京都の大学を卒業。リクルートで16年間新規事業開発や事業推進に関わり、後半はホットペッパー事業の関西エリアの立ち上げや編集長を担当した。ホットペッパーの業務は、自分の担当エリアに徹底的に詳しくなること。そのエリアはたったの半径5kmほどの狭いものだった。この仕事をしていると、そのエリアの事はなんでも分かるがその外の世界の事は何も分からない。アメリカのサクラメントに住んでいた祖父の影響で幼いころから海外にインスパイアされていたわたしは、そんな半径5kmの世界で生きる事に違和感を持った。そして、一生この狭い世界で生きるのではないかと恐怖を覚えた。

その感情がきっかけとなって、アジア22ヵ国の周遊を開始した鵜子氏。そして最終的に拠点をマレーシアと定め、そこで事業を立ち上げるに至った。

 

本当のことは、行かなければ分からない

ー中東=イスラム=危険という等式が日本人の頭に刻まれており、イスラム教は怖い宗教だと多くの日本人は考えている。また、鵜子氏が事業を立ち上げた2003年前後には、同時多発テロやイラク戦争もあった。マレーシアはイスラム教を国教とする国家だ。心理的に壁を感じてはいなかったのか

事実、私も一度行ってみるまでは事業を立ち上げる場所として「マレーシアはない」と考えていた。やはりイスラムに対しては同じような誤解を抱いていたのである。しかし、実際に彼らと関わって考えが変わった。マレーシア人は基本的に穏やかであり、人口の大半を占めるイスラム教徒は穏健だ。東南アジアのどこに行ってもそうだが、道路では当たり前にクラクションが鳴る。しかしマレーシアの道路ではクラクションがめったに鳴らない。あれほどの交通量がありながら、非常に静かである。私は日本から移住した当初、割り込みに対してクラクションを鳴らしていた。しかしある時こう窘められた。

「クラクションは命の危険があるときに鳴らすものですよ」

マレーシアでは暴力を振るうこと、大声を出すこと、べろべろに酔っぱらうことは軽蔑される。それくらい穏やかなのだ。電車が遅れても騒ぐ人はいない。3分遅延したら謝罪の放送が入るのが日本。しかしマレーシアでは1時間程度の遅延であってもたいして騒ぐ人はいない。「遅れたら仕方がないじゃん」そういう空気なのだ。それが良い、悪いという話ではなく、要するに「穏やか」なのだ。

巷ではマレーシアには海賊が出るだのジャングルだのオランウータンがいるだのイスラム教徒が危険だの多くのステレオタイプで溢れていた。また、マスコミの報道がそれを増長させているきらいもあった。そのため、やはり現地に行って感じたものと日本にいて感じていた印象は違うものだった。実際に現地に行ってみないと本当のことは分からない。実際に自分で一次情報に触れてみることが非常に大事だ。

日本人の強みは「教える」こと

ーアジア中を周遊なさったとの事だが、仕事との折り合いはどうしていたのか

リクルートという会社に所属しながらの周遊となった。当時管理職にあったこともあり、1か月仕事を休んでアジアに行くという事はできなかった。そのため、休暇の度に1週間ほど旅をするという方法をとった。旅といっても観光地を巡るようないわゆる旅行ではなく、当時からアジアでばりばり活躍している日本人の先輩方を訪ねて回るといったことをしていた。

アジアの各国でお会いした日本人経営者のみなさんはエネルギーに満ちた素晴らしい方ばかりで、アジアといえば何もないという印象を抱いていた自分にとってはとても衝撃だったことを覚えている。このような形で短い旅を繰り返し、22ヵ国を回るころには気づけば4年の歳月が経ってた。

ーアジア22ヵ国の旅や、10年を超えるマレーシアでの生活の中で日本人の強みに気づかれたとのことだが、それはどのようなことか

「教える」ということだ。

日本人は人に教える事が当たり前という価値観を持っている。一方マレーシアの人は基本的に「教える」ということをしない。

自分の手練手管を明かさない。完全に個人主義の世界なのだ。

ーそれでは人材が育たないのでは

そのため私が、部下を教えるようにと強く指示している。そうしなければこちらの人は部下には仕事を教えない。

ー個人主義とはいえ、例えばアメリカでは部下の功績が自分の評価にも影響することもあって教育熱心な印象があるが

部下のパフォーマンスが自分の成績に影響するという評価制度を背景としているように思う。しかし日本は違う。先輩が後輩に教えるという共通認識、文化がある。つまり、自然にそれが行われる土壌がある。ここが日本人の強みだ。

日本人の強みという事に関して言えば、他にも数多くのものがある。例えば、アジアで日本人は今のところ信頼されている、それは日本人の持つ謙虚さや礼儀などに起因するものだ。日本で生活している中で自然と身についてくるこれらの良さは、日本にいてはあまり気づかない。外に出て初めて分かることだ。近年の日本は、マスコミが増長させている一面もあると思うが必要以上に海外礼讃に走っているように感じる。もちろん海外にも素晴らしものはたくさんあるが、私たちは日本人として既に誇るべきものを持っている。それを心に刻んでいただきたい。

マレーシアは地球スケール

ー現在マレーシアでドメスティックに活動している仰っていたが、日本のドメスティックとマレーシアのドメスティックは意味が異なり、マレーシアのドメスティックはある意味グローバルなのではないか

日本のドメスティックは、本当にドメスティックだ。日本には基本的に日本人しかいない。外国人が歩いていると奇異な目で見る人もかなりいる。しかしマレーシアには100ヵ国以上から人が集まっていす。まさに人種のるつぼ。近くの大学でご飯を食べても、そこにいる人は一体誰が何人か分からない。そこにマレーシアから見て外国人である日本人が混じっていても誰も気にしない。マレーシアは地球スケールなのである。

よく言われていることだが、マレーシアは民族的に宗教的に多様な国家だ。ムスリムも仏教徒もヒンドゥーもクリスチャンもいる。ムスリムの中にも敬虔なムスリムもいれば緩いムスリムもいる。出稼ぎに来ている発展途上国の労働者もいれば、エクスパットと呼ばれる先進国から働きに来ている人もいる。本当に多くの属性の人が暮らしている。この感覚は言葉ではうまく伝わらない。この空気を知りたいのであれば、とにかく一度マレーシアに来てみること。それが全てだと考える。

ーマレーシアは知名度も高まり、多くの日本人がリタイア後の移住先として選ぶ国家となった。鵜子氏の考える、これから面白い国家、若い人にぜひ飛び込んでもらいたい国家はどこだろうか。

何かをやろうとしたとき、既にマレーシアでは右向けば誰かがやっている状態。クオリティは低くても、誰かはやっている。しかし近隣にはまだやったもの勝ちの国家は数多くある。ASEANで言えばカンボジア、ミャンマー、ラオス。ちょっと西ではインド、スリランカ。さらには中央アジアで言えばウズベキスタン、カザフスタンといった国々だ。私は5年後には多くの日本人がウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジアの国家に注目していると考えている。もし飛び出す元気のある若者がいるならば、ぜひ行ってみて欲しい。

幻の言葉、グローバル

ー個人的にはグローバルという単語が好きではない。使い手、聞き手によって解釈が大きく変わる言葉であることと、「グローバル」それ自体の意味も明確でないからだ。「何かカッコいい」「使っておけばそれっぽい」そんな漠然とした形容詞となっているような印象を受ける  

グローバルという幻の言葉に踊らされているのではないかと思う。その言葉に踊らされて高い授業料を払って英語を勉強していたり、「海外に出ればいいんだ」というような人が多いような印象を受ける。そして、英語話せないの!?であったり、地元の街ばかりで遊んでるの!?、パスポート持ってないの!?など、そういった人格否定に走る風潮があるように感じる。「1億総グローバル」と言っている評論家もいる。

グローバルをどのように定義しての発言なのかは分からないが、それでは日本が空っぽになってしまうようにも感じる。日本にいて地域を守る例えば電車の運転手や、目の前の人を守る介護士のような役割も当然必要。実はこの2つは私の二人の弟たちの職業なのだが、彼らは本当に誇りを持って日々職務を果たしている。

グローバルな人材になりたいと言って海外にきて、あちこち回って、食べ物の写真や建物の写真をソーシャルに載せたりする。これはではあまり意味がない。1年間海外にいて「よしグローバル人材になった」これも違う。海外に来るにも何か目的を持って活動し、何かを成し遂げることが重要なのだ。

ただ、一概に「グローバル」という言葉は否定できない。もちろん良い意味で使っている場合もある。別な言葉を使って欲しいよね。グローバル使用禁止令とか出して欲しい。

そして、勉強しなければだめ。最近の日本では、大衆を煽るような報道、ともすれば過激な意見に走りがちな2chなどを見て議論がスタートしている。これではすごく断片的な情報からしか判断できていない。例えばオウムは仏教から派生しているが、それを以って仏教徒は危険と判断することは正しいだろうか。それと同様に、ISが危険だからイスラム教徒は危険と判断することは正しいだろうか。日本人は、勉強しているようで本質を掴めていないように感じる。どこかに常に日本という中心軸があって議論がスタートしている。

そう考えると、1つグローバル人材の定義としてあるのが「とある常識に対して他の文化圏ではどうなのか」を考えられる人かもしれない。例えば日本にいると数分の遅れは致命的だが、マレーシアではそんなことでは誰も怒らない。「仕方ないよね」という価値観だ。アフリカのある地域では、「太陽がこのくらいの時に会いましょう」という約束が普通なので1,2時間の誤差は当然起こり得る。他にも、日本ではレストランで子供が走り回っていることを良しとしないが、マレーシアでは「子供のやることだから」と許容する空気がある。そういったことを知った上で、じゃ日本ではこう行動しようという判断ができる人がグローバル人材と呼べるのではないか。

必ずしも海外に行かなければならないということではない。あなたは、日本について2時間語れますか。ほとんどの人は語れないと思う。もし日本について2時間語れるのであれば、それはもうある意味グローバル人材だ。

グローバル人材になるにあたって、日本から出ることは十分条件ではない。英語を話せることも十分条件ではない。そもそもグローバル人材という言葉は「かっこよく活躍できる人材」と言っているに過ぎない。もし漠然と「グローバル人材になりたい」と考えているのであれば、自分にとっての「グローバル人材とは何か」を細かく定義する必要がある。その結果、ある分野で世界一の専門性を身につけることが必要なのかもしれないし、英語ではない言語が必要なのかもしれない。徒らにグローバルに憧れて日本を飛び出す前に、自分にとってのグローバルの意味と真剣に向き合ってみよう。そしてその上で日本を飛び出し、自分の考えるグローバル人材を目指して活動してみてはいかがだろうか。